お守りの歴史

神社やお寺でいただけるお守りは、様々なデザインや形状があります。このお守りはいつから出来たのでしょうか?

日本のお守りの起源は、勾玉?

縄文時代の遺跡に、勾玉(まがたま)が出土しています。一般的には首飾りなどの装飾品と考えられています。三種の神器の一つにも八尺瓊勾玉があったり、奈良時代の寺院の基礎に埋められたりと何らかのパワーが宿る物であったり、呪術的なアイテムであったとも考えられています。

勾玉はほぼ日本でしか出土しておらず、日本独自のお守りとして考えて良いと思います。素材は翡翠、瑪瑙、水晶、琥珀、鼈甲など様々な素材が使われていたそうです。特に翡翠はとても硬く、当時は1つ作るのに専任の職人が2ヶ月以上かけて作ったとも考えられています。そのために、かなり貴重なものであったようです。

現在のお守りの原型は?

中国から仏教や道教などが伝わると、お経や護符など神に文字や図形の書かれた物に、何らかの力のあるものという概念が入ってきます。

平安時代にはお経を書いた紙を丸めて美しい錦の布で作られた袋の中に入れ首からさげ身につけていた「懸守」が貴族の間で流行します。この懸守は、現在でも大阪の四天王寺に残っています。最近のX線調査によると内部は木材で仏像が彫られているそうです。

庶民のお守り

江戸時代の記録によれば、庶民の間でも様々なお守りが登場しています。

お守りなどで神輿を担ぐ人が身につけている木札が有ります。幅1〜3センチ、高さ3〜5センチほどの木の板に神社や神様の名前が彫られています。これをひもで首からさげて身につけます。

成田山新勝寺に伝わる逸話には、山門を直していた大工さんが、はしごから落ちてしまいました。普通であれば、大けがをしたり死んでしまうほどの事であったのですが、身につけていた木札が割れていただけで、怪我一つ無かったというのです。そのため、この木札は身代わり守りとも言われています。

着物に縫い付けていたお守り

また、江戸時代の庶民の間では、信心する神様の名前を布に書き、これを普段着る着物に縫い付けてお守りとしていたと伝わっています。左側の襟の裏あたりに縫い付けていたとされています。

現在のお守り

戦後に入り主に神社が自立して運営していかなければならなくなりました。この歳費をまかなうために広く浄財を受けるためにも、社頭でお守りを出すことが盛んになります。

それとともに、お守りのデザインも様々なものが開発されています。寺社に古来から伝わる授与品以外にも、お守りを専門に作る業者が納入するお守り袋がメジャーになってきます。

現在では少なくなりましたが、お守り本体とお守り袋は別々に求めるかたちでした。神社の出しているお守りは紙で出来た小さなお札のような物です。現在でも肌守りなどの名称で出ている物とほぼ同等です。

このお守りを錦袋とも言われるお守り袋の中に入れて身につけます。

現在では、すでにセットになった物のほうが多くなりました。